悲劇の有人ロケット
ここでは、旧日本軍が戦争末期に発明した特攻有人ミサイルについて紹介します。
その名も桜花(おうか)
戦前戦中、日本では武器としてロケットが盛んに研究されました。
最初は、砲弾の到達距離を伸ばす目的ではじめられ、そして、敗戦色濃い戦争末期には、とうとう、特攻有人ミサイルという悲劇的結末に辿り着いてしまいます。
運用目的を考慮しなければ、性能自体は、当時としては素晴らしいものだったようです。
きわめて短期間の間に、同盟国であったドイツの技術を参考にしながらも、世界最高水準のロケット開発能力を発揮した、ということだったといわれています。
ただし、最高機密であったことと、資料や実機の廃却、技術者の散逸、忌まわしい思い出ということもあり、ほとんど歴史から忘却されてしまうことになり、正式なデータとしてはほとんど残っていないようです。
桜花は、太平洋戦争中の 1944 年(昭和19年)に開発され、1945 年(昭和20年)より実戦に投入された、と、されています。
桜花自身、大型の徹甲爆弾以外は自力で飛行能力を持たず、目標付近まで、母機に運んでもらう必要がありました。
そして、目標付近まで接近すると、母機から切り離され、その後は搭乗員が誘導して目標に体当たりさせる、という有人誘導ミサイル兵器でした。
しかし、軍上層部の皮算用と違い、現実は厳しいものでした。
たいていは目標に接近する前に、母機ごと撃ち落とされてしまうのが、ほとんどだったのです。
母機にとって、大きな爆弾を抱えた桜花自体が重すぎ、ただでさえ大型の身体をコントロールできず、桜花を抱いたまま撃墜されました。
さらに、“神風特攻”による護衛戦闘機とパイロットの絶対的不足と、物資不足のなか、防弾率が著しく下がった護衛機は、着弾すると簡単に火を噴き、次々と海に落ちていきました。
こうして丸裸になった、対抗策を持たない母機と桜花は、為す術もなく、さらに撃ち落とされていったのです。
終戦から始まり
飛行部設計技術者達は、「技術者としてこんなものは承服できない、恥です」と強硬に反対したといいます。
当時の熟練パイロットの一人も、計画自体の無茶さを批判した、という話も残っています。
兵器の性質上、訓練の段階で次々と死傷者を出す有様でした。
終戦。
失うものに見合った結果を一切出せぬまま、その呪われた運命だけを残し、桜花は歴史の闇へと消えていきました。
そして、平和な時代が訪れ、ある高速鉄道が世間を賑わしていました。
夢の超特急、新幹線。
そのデザインを手がけたのは、桜花の設計に関わったある技術者でした。
多くの青年を散らした事を悔い、色々考えて、平和利用しかできない鉄道の世界に入ることを決意したのだそうです。
その独特なデザインは、子供たちの心をぐっと掴んで離しませんでした。
すべての発明は、すべての子供に夢を与えるものであるべきです。
これからの、宇宙とロケットが、子供たちに夢と希望を与えるものでありますように。